1969年ドラフト1位で
阪神タイガースに指名され、入団。ドラフト会議前には
読売ジャイアンツ(巨人)の指名が確実視され、本人もそれを望んでいたとされる。しかし実際には予想を覆し、関西出身の富田勝を指名すると噂されていた阪神が田淵を1位指名した。東京で生まれ育ち、学校も全て東京の田淵にとっては、兵庫県西宮市を本拠地とする関西の球団はイメージすら浮かばないという心境で悩んだという。ドラフト前に巨人関係者と会食し、「君には背番号2を用意している」と言われ感激したが、ドラフト指名がこのような結果になってしまい、落胆した。一方、諦めきれない巨人側も、密かにとあるホテルで会談を画策したが、同じホテルで
大洋ホエールズの選手の契約更改記者会見と重なってしまい未遂に終わる。後日談として、田淵は現役引退後のゴルフコンペで
川上哲治に直接問い質したところ「わしは知らん。喋らん」と言われてしまった。
ドラフト指名後の記者会見で、母親が田淵を「ぼくちゃん」と呼んでいることが発覚して記者たちの度肝を抜いた。大阪へ出発する東京駅では、号泣する母親に記者たちが「まるで出征兵士やな」と失笑をかった。
阪神入団後は強肩、強打の捕手として正捕手に正着。22本塁打を放ち、
新人王を獲得した。しかし、2年目の
1970年8月26日の対
広島東洋カープ戦で、
外木場義郎から左こめかみに
死球を受け昏倒。耳からは血が流れており、すぐさま救急車で病院に搬送された。この事態に衝撃を受けた球界は、以後耳つきヘルメットを使用することになった。この怪我は「田淵の体質がこれで全て変わってしまった」と言われるほど大きなもので、翌年まで尾を引いた。この頃、打撃フォームを一本足打法にしてから飛距離が伸び始め、
1972年には34本塁打を放つ大活躍。
江夏豊とのコンビは「
黄金バッテリー」と呼ばれた。しかし、この頃から入団当時「
もやし」「
キリン」のあだ名を持つほどやせていた体型が急に太りだした。